MASA@白血病→記憶障害

61歳で白血病になった。

病は気から。

 今回の闘病の日々を、どのように表現しましたら、この私の体験を上手くお伝えできますでしょうか。自分を襲った突然の病との関わりを、少しずつ文字に書き出してみようとノートを前にあれこれと思案しているところです。すらすらと文章が出てくるようでしたら良いのですが、残念なことに、高次機能障害に陥ってしまっている私にとりましては、そう簡単なものではありません。

 ですから、自分の闘病生活を整理するために時系列的に日記風の文章を書き連ねることにしました。下書きを何度も読み返し、それらの内容を何度も見直しをした上で、わかりやすくまとめておくことにしました。中には重複している場面もあるかもしれませんが、その原因の大部分は、白血病とされる病気によって臍帯血移植した際に起こってしまった"脳炎"による記憶力の錯綜と低下ですので、勝手な言いわけですが、どうかご容赦いただきたく、とお願いいたします。

 いずれにしましても、記憶障害を患うようになってしまった私にとりまして、自らの闘病の日々を、文字と文章として残しておくべき必要性を痛感しました。その時々の自分の考えや気持ちを忘れないために、しっかりと記憶に刻み込むために、文字による記録が大切だと考えていたからです。

 その上で申し上げることができますのは、この世の中、何事も心の持ちようではないかということです。大きな病気に罹り、たいへん不幸な自分の状況に、際限なく悲観的になってしまっていました。 

 しかし、いざ入院してみましたら、隣りの部屋の患者さんの方が、私の病状より遥かに悪く、明日の命も危ぶまれていることを知らされたりします。もしや、自分の死はそんな急に訪れるものではなく、時間的な猶予がまだ充分に残されているのではないか。もしそうであるなら、私には、これから先にまだまだ長い時間を与えられているにちがいない、そんな自分に有利で、あまりにも身勝手な思い込みが湧き出してきたりもしました。そこには、何の医学的な根拠もありません。ただただ、重篤な病いに陥っても、まだ希望的観測にすがりつき、安堵してしまう、あまりにも楽観的な自分を描く瞬間でもあります。

 いずれにしましても、私自身が、否応なく再確認していますのは、何の前触れもなく、大きな病気に罹り、死に直面する、そのような最悪の状態にある病人となってしまった事実です。